昭和42年04月03日 夜の御理解



 元気な心で信心せよと。勿論、元気な心というのは、心の中から湧いて来る信心の喜び、生き生きとした信心の喜びが、そうさせて貰わなければ居られない。例えば、心のその喜びが、そのまま、お参りもさせて貰わなければ居られない。御用でも頂かなければ居られないという様な心を元気な心と、まあ申しますでしょう。それが、ほんとでならなければならないのでございますけれども。
 それだけでも、例えて申しますと、只今の御祈念に座らせて貰います前に、田中さんがお届けをして居られます。今朝のお夢の中に、合楽に合楽にと、皆さんが集まっておる。それが二頭立ての、昔高貴の人達が乗りましたですね。あの二頭立ての馬車馬に、いわゆる、高貴な方がですね、乗られてそして合楽に見えておられるところ。次には、自分は、初代の桂先生という方は、存じ上げないけれども。
 はっきり夢の中で、桂先生とこう思われる方が、小さい5つ6つの子供を、足元に乗せて、それは人力車で矢張りここにお見えておられるところを、お夢の中に頂かれたとこう言う。次には或る方が大きなこんな、しょうけがあります。しょうけ一杯にその、生みたての卵を、これはもうとても生きの良い卵だから、上がって元気づいて下さいと云う様に、沢山の卵を持って見えられた夢であった。
 次には、ここのご信者さんの、美登里会という婦人部の方達だけでしかも、朝参りの御信心をなさる方達ばかりの集いがございます。それを椛目では椛目の魔女達と云うくらいに、その元気な生き生きとした、まあ信心をなさるグループでございます。ところがその美登里会の会員のある方達が、これはおそらく全部を指した事でございましょうけれども、名指しは致しませんけれど、お太鼓に結んでおられるその帯がです。
 もうずんだれないばかりに、緩んでおるというところを頂かれたとこう言う。椛目で云うなら生き生きとした、いわゆる今晩の御理解から云うならば、元気な信心をしておる人達の代表と云われるような方達が、いわゆる帯をずんだらかしておるというのは、信心の帯を緩めておるという事である。信心せよ信心の帯をしっかりせよ、とこう仰るが信心の帯をしっかりどころか。
 もうずんだれてもうずんだれる一歩手前と云った様な状態であるという事。又高貴な方達が、ここへ続々とその見えておられると。今日もここの合楽の顔役の方が見えられましてから。実はその、私の家内が、草野から来とります。もうお婆ぁさんなんです。ところがその明日同窓会が有りましてから、その同窓生の順番回りで、毎年同窓会があるそうですが。私の方にそのなってこの最初の方なんです。
 それが皆さんが云われるのに、今度はあんたんがたん当番じゃけん、どうでんこうでんその合楽の金光様が立派に出来てござるげなけんで、いっちょ参観をさして頂きたいけん、あんたが交渉ばしといてくれと云うお話があったというのでございます。これは毎日の様に今その矢張り知名の方達、又はその色々好奇心を持っておる方達が、毎日ここには参観を願い出ておられます。という様にです。
 そのみんながその、金光様が立派に出来たが、金光様にお参りしようと云うのじゃなくてです。いわゆる、建築を見たいと云うて、まあ合楽合楽と云うて見えておられるという事。見えておられなくて、一辺、見せて頂きたいもんだなぁと云う様な願いを持っておる人が沢山有ろうと思う事。それはおそらくは、その、先日からも、ここに久留米市の市会議員の方が見えて、是非、市長の井上と云う方ですね。
 井上市長をここにご案内したいと。非常にこの建築に興味を持った方だから、是非あの見せて頂きたいと云いよるから、連れて来ても良かろうかと云った様な話が有っとりましたが。そう云う様に知名の方達が、云うなら、ここに続々と見えるだろう。それは信心ではない、お参りではないけれども見えるだろう。同時にそのお夢の中に頂いておられる、桂先生が小さい子供を乗せて人力車で見えたという事は。
 これは決して云わば私どもが申し上げておるところの桂先生ではなくて、人力車に乗られるところの桂先生であるという事なんです。人力車というのは、人間心ばかりを使うて行かれる桂先生という事なんです。いわゆる教団の中でもです。いわゆる九州のお道の中でもです。椛目がこうやって立派なお広前が、建立が出来たと云う話を、みんな聞いておられて。一辺是非、見げ行きたいもんだなぁと云うような人達はです。
 もう大人も子供も足元に乗せて居れるところの子供さんの人達もです、教団に関係の有る方達が、一辺行って見て見たいと云う願いを、信心の稽古じゃない。という人達があるだろう。いわゆる、人間心を旺盛に使う人達があるだろう。それでも良いのだ。知名な方達が、高貴な人達が、参観に見える事も、それは合楽の金光様のご比礼なのだ、有り難い事だと私は思うのです。
 ところがです、ここで、例えば、信心の元気な心の代表と云われるような、いわば、美登里会の人達ですらがです。信心の帯を緩めて、ずんだらかしておったような状態のところではです、大した事は無いと云う事。ここに、生き生きとしたところの、神様のお取次ぎの働き、人の難儀が助かる事の働きがです。ここのお広前に生き生きとして現れておるのを見たり聞いたりなさった時にです。
 はぁ成る程皆が合楽合楽と云うて、お参りするはずだなと云う様なものをです。信心のない方達でも分かって頂ける様な、おかげを頂いてこそ宣伝する訳ではないけれども。そこに又難儀な人達が助けられていく所の良いチャンスを、神様が与えて下さっておる様なものだけれども。是は建築は流石なもんだと立派なもんだと。恐らく内容の事は分からんからまああれが金光様かと思われる位で御座いましょうけれどもです。
 生き生きとした何物をも与える事が出来ないと云うのであっては、神様に対しても相済まんと云う事になるのです。お互いが生き生きとした元気な心で信心させて貰うという事は。心の底から湧いて来る信心の喜びが、そうさせて貰わなければ居られない。お参りさして貰わなければ居られない。御用でもさして貰わなければ居られないと云う様にです。ちょっとお便所へ行ったらとてもお便所でんなんでん光り輝きしよる。
 やっぱり信心の稽古の殿堂だと云うような、私は何物かが、ここになからないけんのだけれど。私今日始めて下の便所をこう廻ってまいりましたが、もうそれは勿論下が砂でございますから、全然開かない扉がいくつも有る。もう水が一杯溜っとる。あぁこれではこれではいけない。これはほんならそのここが片づいとらなきゃならないというところが、片づいていないという様な事ではです。
 これは矢張りここの信者の名折れになると、私は思うのです。それは結局皆さんがそして元気な信心をしなさらなきゃならんのですけど、まあだそこは悲しいかなですね。いわゆる湧いて出る様な信心の生き生きとした喜びがないから、それこそ生卵でも食べて元気づいて、一つもうしいら元気でも良いから、今のところ元気な心を、云わば振り絞って信心の稽古をさせて頂かなければならない時ではなかろうかという風に。
 私はその田中さんのお夢の中から感じる事が出来たのです。
 合楽の広前の信者さんがわずかばかりの信者さんが、これだけの事をなし得たと。しかもその沢山の人達の真心を結集して、一人でもほんなら家屋敷を売ったといった様な、無茶な献納やら、お供えやらで、出来たのではなくて、もう本当に真心で出来たと云うところにです。このお広前の値打ちがあるけれども。その値打ちを値打ちたらしめるもの。それは、その中に信心の稽古をしておる人達がです。
 生き生きとした喜びで、お広前に集い、お広前に集まって、御用をさせて頂いておると云った様な、私は姿こそ本当のもんじゃなかろうかと。先日親教会の総代さん方が見えて、ここは何時来たっちゃ事務所がいつも生き生きしておる。なるほど最近学生会の方達が、新聞の編集の為に何時もあすこへ集まって、色々な御用をさして頂いておる。何か御用しておるという事がです生き生きしたものを感じるのです。
 それが、そこも有り難いのですけれども。肝心要のお広前肝心要のこの御結界でです。人が助かる事の為の、生き生きした活動。そう云うお取次ぎの働きと云う様なものがあっておって初めてです。あちらのお広前は景気云わば、生き生きとしておると。あちらの信心は成る程とまあ合点して下さる様な、このお広前のご建築とあいまって、そう云う内容の信心というものが、必要ではなかろうか。
 今日ちょうど合楽の部落の部落長さんと云う方。私そこに出ましたらそこんところで、部落長さんと、土地の世話をして下さった中鶴さんとが、そこに見えておられるところでございました。それで私もこんな格好してるから、地下足袋などで見えておられましたから裏の方へご案内してから、庭先でお茶ども差し上げたんでございますけれども。そん時に、ちょうど中村さんがお参りとうよりもやってみえとる。
 とにかくですねやっぱり朝も参る今晩も参っておられますが、晩も参る。けども昼はちょっとやっぱ覗いて見なければ居られない、そういう様な心なんですね云うならば。そういう様な心がです期せずして、ほんならそこでさぁちょっとすまんけど、あなた御用して下さいと云うてまあその方達に対する、御用までして頂いたんですけれどもです。そう云う様なものが今の椛目に薄うなった。
 もう疲れ切っておると云った様な感じがあるのです。そこで皆さんそれこそ生卵を食べてからでもいっちょ元気をつけてです。元気なそれは本当な元気な心での信心ではなかろうけれどもです。ここに云わばしら元気でも良いから元気を出してです。眠うもあろうきつうもあろうもう昨日もお参りしとる、もうここにも参っとると云わずにです。やっぱり今まで通り以上の生き生きした元気な信心がお広前に現れて行かなければです。
 せっかく神様がこうしてここのご比礼として現して下さる、云わばその町内町外の方達が、ここに参観に見える方達に対してもです。何物かを持って帰って貰いたい。ただ素晴らしい建築だというものだけではなくてです。信心ちゃ有り難いもんだなあ生き生きしたものを感じてきた、とはなしに、そう云うものを受けて帰ったと云う様なものをです。与え又は頂いて帰って貰いたいと云う。これは私の願いではなくてです。神様の願いがそこにあるのではなかろうかという風に思うのです。
   どうぞ。